落した? 順位を?
瞠目したままの瞳は、目の前の何をも見てはいない。
「あら? ひょっとして、知りませんでしたの?」
美鶴の態度に、少女は満足気に笑う。
「この間の校内模試。総合と英語、落してますわよ」
でもまぁ と、嫌味のように付け足す。
「他の科目は相変わらず一番ですもの。総合と英語を落したからといって、気にすることはありませんのよ」
気にせずにはいられない言い草。片手を唇に添えてクツクツ笑うと、髪の毛を翻してその場を離れていった。
気がつくと、教室中のすべての生徒が、美鶴に向かって笑みを向けている。
ざまぁみろ
いつもいつも俺たちを見下しやがって
いい気味だっ
そんな視線が、容赦なく美鶴の頭上に降り注がれる。
成績だけでは、誰にも負けないっ!
その自負が、今の美鶴を支えている。
くだらないと卑下してきた周囲の生徒を、成績で見下すことだけが、今の美鶴の唯一の楽しみでもあった。
落ちた………
成績を落した………
目の前が、真っ暗になった。
粘り気のある汗が、項を伝う。
蝉の泣き声がジンジンと、耳孔に響く。
夏が――― じんわりと全身に纏わりついてきた。
幸田茜は、車の発車音に顔をあげた。同時に、背後から聞こえるため息。
振り返る先では、少し呆れ顔の木崎。
その木崎と、目が合った。
何を言っていいのかわからず、曖昧に視線を逸らす。目の前の仕事に集中しよう。そう試みる。
「戻ってしまいましたね」
木崎の言葉が、集中力を乱す。もはや、無視できる状況ではない。
諦めて顔をあげる。木崎は、もうすぐ傍まで来ていた。
「期待した私達が、愚かだったのですかねぇ?」
「そんなことは……」
適当な慰めなど、通用しないのはわかっている。だが、他の言葉を見つけることができない。
電話が鳴ったのは、そんな茜の態度に木崎が優しく笑った時だった。小走りにかけてくる女性を制して、茜は受話器を取る。
「はい、霞流でございます」
「突然のお電話、申し訳ございません」
このような前置きをする電話は、胡散臭い勧誘か押し売りの類と決まっている。どう断ってやろうかと構えながら、次の言葉を待っていると――
「私、唐渓高校で教頭をしております、浜島と申します」
「浜島…… 様」
呟くような言葉に、木崎がピクリと反応した。だが茜は気付かない。むしろ、相手の言葉の方が気になる。
唐渓高校……… どこかで聞いたような?
記憶を手繰り、少女の顔が思い浮かぶ。
あの子が通っていた学校だ。
だが、その少女はもうこの屋敷にはいない。
事情を説明しようとした時だった。
「お忙しいところ申し訳ございませんが、霞流慎二様はいらっしゃいますでしょうか?」
「え?」
思った人物とは違う名前を指名され、思わず聞き返す。
「えっと……」
動揺しながらも不在を告げようとする茜の手を、皺枯れた手が包む。
振り返った先で、木崎が強く頷いた。
茜も小さく頷き「少々お待ちくださいませ」と断ってから、木崎へ受話器を渡す。だが彼は、受話器を受け取るとそれを耳には当てず、人差し指で保留ボタンを押した。
しとやかなクラシック音が流れる。
「私が応対しましょう」
茜が何も言う前に、木崎の方から小さく告げる。そうしてそのまま、近くの小部屋へと入っていった。
木崎は特に楽しそうでも、また不愉快そうでもなかった。だが、何かしら威圧感のようなモノをたたえていた。
小部屋へは、誰も入れてはいけないだろう。
茜はそう理解し、休めていた拭き掃除の手を動かし始めた。
あの少女の通う学校の教頭が、どうして慎二様へ電話なんかしてきたんだろう?
疑問に思うのは当然だが、詮索してはいけない。それがお屋敷勤めの鉄則だ。
開け放った窓の外から、耳障りな蝉の音が響いてくる。
今年は、猛暑になるらしい。
梅雨の時期にあまり雨が降らなかったため、水不足も心配されるとか。
まぁ この屋敷は丘の上にあり、風通りも良い。部屋によっては、夏でもエアコンの存在を必要としない場所もある。
暑さはあまり、心配していない。
本当に、夢のようだわ。
ぼんやりと、思わず手を休めているところに、控えめな扉の音。思わず振り返ってしまった茜を見つけて、木崎は何でもないかのように朗らかに笑う。
「慎二様は、唐渓高校の卒業生なのですよ」
あぁ そうなのか
納得し、次にはハッと片手で口を抑える。その仕草に、木崎がまた笑った。
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